開設10周年記念・10年間の歩み朗読編


左から峯尾武男さん・白川洋二さん・川中多恵子さん・金井サラさん・本田玉娟さん

10年間の歩み・・・朗読編

Q「関西生命線」は1990年11月にスタートしました。中国北京での「天安門事件」の翌年です。関西生命線の活動の基本方針である「生命線宣言」を、まず日本語で、そして中国語で朗読します。
・ 関西生命線宣言
「関西生命線―台湾語・北京語」は、人間の生命はあたえられたものであって、みずから勝ち取ったものでないという事を信じております。それゆえ人は尊く且つ最も意義のある人生をすごすべきであります。この人間は社会的動物でもあり、この為に人は人間性の尊厳のため、相互援助をしなければなりません。
 日本に於いて台湾語・北京語の電話で、おとなりの台湾や中国出身の人達が、この異郷のなれない社会で人間として生き悩んでいる時に、奉仕するのが本生命線の目的であります。このような小さな努力は、日本の社会に於ける人間性の尊厳建設に、少しでも役に立つことと信じます。



Qいのちの電話活動の開始に至るまでに多くの人たちや団体の支援を受けながら設立準備は進んでいきました。その準備段階で、伊藤みどりが産経新聞に「教育のあり方」を論ずる文を投稿し、末尾に「台湾語と北京語によるいのちの電話」を作ろうとしていることを書いたところ、その部分に興味を持った記者が取材にやってきました。90年4月13日の産経新聞夕刊は伊藤みどりを次のように紹介しました。記事の一部です。
・ 異国生活の悩み相談を母国語で開設準備中の「台湾.北京語のいのちの電話」の発起人 伊藤みどりさん
 中国や台湾から日本に来ている留学生、華僑、中国残留孤児二世、国際結婚のカップルなどがその対象。自殺予防の市民運動として1953年にイギリスで始まった“いのちの電話”。今では日本でも32のセンターが活動しているが、外国語のものは、東京に英語版が1ヵ所あるだけ。「言葉、生活習慣など、慣れない異国の生活でぶつかる壁への悩みから、人間関係の問題まで幅広く受け付けたい」という。
 電話相談を思いついたのは、ジャパゆきさんや日本にいる外国人の自殺がクローズアップされた2,3年前。慣れない異国での新しい生活にとけ込むための苦労は自分自身で体験ずみ。相談を受ける台湾人スタッフとして、社会福祉専攻の留学生と、ボランティア活動をしている55歳の女性がそろった。
「これから賛助会員を集め、1年1口5000円のカンパを募っていきたい」とはりきっている。


Qこのあと日本の報道機関や台湾の新聞の報道が相次ぎ、関西生命線の目指すものは広く社会の認識が得られるようになりました。
 そして一年、スタートから支援を続けてきてくれた松下電工労働組合と基本理念で大きな隔たりがあると感じた伊藤みどりは独立して関西生命線を運営する事になりました。
 初めの1年間の受信総数は422件、相談件数346件でした。対象別で見ると国際結婚116人、留学生87人、日本人64人、残留孤児二世41人、在日華僑38人でした。朝日新聞の記事から具体的な相談内容を紹介します。
・言葉の壁に不安訴え  1年間で相談350件も
 「毎日、不安で寝られない。家事も手につかないし、近所の人づきあいもうまくできない。食欲もなくなり、体も弱ってきた。どうすればいいの」京都府に住む中国人の主婦からの電話だ。
 中国残留孤児2世の夫と結婚し、3人の子どもがいる。1年ほど前に来日した。日本語をうまく話せず、友人がいない。夫と子どもたちが会社や学校に出かけると、ひとりぼっち。寂しさに耐えかねてかけて
きた。
「中国語で話せる相手がほしかったの」と最後は涙声になった。精神的に疲れきっている様子だった。関西生命線のボランティアは直接会って病院まで付き添い、精神科医のカウンセリングや投薬で元気を取り戻した。
 中国人留学生は「書店に成人雑誌が並んでいるが、読んでも罪にならないか」別の留学生は「ビザの期限が切れていた。どこに届け出たら」と聞いてきた。
 残留孤児や家族らが日本の生活、習慣になじむには2,3年ほどかかるという。職場のトラブルや家庭内不和は、来日して3年以内の人たちに集中して起こっている。深刻なケースは心の悩み。家にこもりがちな主婦のストレスは周囲の人が考える以上に大きく、自殺につながりかねない。


Q1周年記念の「お弁当講習会」もスタートしました。また「大晦日水餃子、火鍋大会」も92年2月3日に初めて行われました。この年の8月には第1回「夏休み中国帰国児童・生徒交流の集い」があり、9月11日には中国式の月見大会の第1回が大阪城公園で催されました。大阪日日新聞の記事の一部です。
・ なつかしい味、音色に感激
9月11日の当日には中国のほか、台湾や韓国、イランなど数カ国の人々約200人が参加。中国の習慣に興味を持つ日本人約200人も集まり、暗闇にくっきり浮かぶ美しい黄金の月を仰いだ。
 日本ではあまり馴染みのない月見大会だが、中国ではかなり盛んだ。日本のクリスマスのような感じで、村単位、家族単位で年に1度盛大に楽しむという。
 今回の月見大会はさまざまな催しがミックスされたパーティー形式で行われた。大阪城公園の芝生の上に設けられた会場には、数十台のテーブルが並び、その上にはおいしそうな中国料理が盛られた。
 「日本の食事はどれもあっさりしていて口に合わない。中国料理店に行きたいが、私らには値段がものすごく高く手が出ない。まさかこんな所でこってりした郷土料理が食べられるなんて」と在日3年目の中国人女性は感慨深げに話し、久しぶりに味わう中国料理を目を細めながら食べていた。中国古風の月餅数種類も用意されており「こんなおいしい餅が市販されていれば毎日でも買うのに」とパクつく日本女性も。
 中国古典楽器の胡弓演奏には、参加者全員が静かに聞き入っていたが、なかには故郷のことを思い出したのか涙ぐむ女性の姿もあった。


Q夏休みの児童生徒交流の集いの3回目に寄せられた参加者の感想をお聞きください。
・ 船出する方向も見つけられ、うれしい。
#日本に来て1年半になりますが、日本の社会において私は大海に浮かべられた小舟のようで、自分が一体どこにいるのか全く不安でわからない状態でした。
しかし、今回この交流会に参加し、特に異国でたくさんの中国の友達ができ、特別な親近感を感じるとともに、私が船出する方向も見つけられ本当にうれしかったです。(高2女子)
#来日後、初めての夏休みにもかかわらず、この2泊3日のつどいが夏休みの中で一番楽しかったし、収穫も大きかったです。日本での生活や学校生活においていかに適応するか、今回の話し合いの中で理解することができました。(中2男子)
#1994年5月12日に日本に来ましたが、言語に壁があり外へ出かけることができない状態で、非常に孤独でした。毎日思いましたのは、早く友達ができ一緒に話すことができればということでした。短い期間でしたが、今回の交流会に参加でき、精神的にすごく満足しました。(母親)
#今回で2回目の参加ですが、また新しい友達ができ、同時に家で学ぶことのできないことも学びました。プールに入り泳いだことや、「地域でどうしたら日本人と友達になれるか」という問題提起があり、中国人の尊厳を忘れず、積極的に日本人と接触しうまくつき合うことによって、日本での生活も変わっていくということです。日本人の方にも協力してほしいと思います。そうすればもっと有意義な生活を送ることができると思います。(母親)


Q来年2001年は国際ボランティア年です。関西生命線は、93年の7月にボランティアについて考えるシンポジウム“What is a volunteer?〜改めてその原点を考える"を大阪と東京で2日連続で開きました。ボランティアの原点について本来の『無償の奉仕活動』という意味をしっかり認識してほしいという思いがあったからです。
 関西生命線の活動に参加しているボランティアの声を紹介します。
・ ボランティアはこう考える
#日本に来て初めてボランティアの活動に参加した。色々な人とふれあったり、困った人を助けてあげたり、本当に自分がそこから成長したと思う。一番尊敬するのは伊藤みどりさんの奉仕精神。これからも私はできるだけたくさんの人の役に立つことがしたいです。(楊 千慧・台湾・留学生)
#ボランティア活動というのは時間的にも経済的にもゆとりのある人がするという見方をする人が多いと思います。実際日本の就業状態では、精神的にも参加できる気分になれないのが現状なのでしょうが、それはとても悲しいことだと思います。日本の社会全体が週休2日制などの取り組みによって、変えられていくことと、私たち一人一人の姿勢も前向きになっていくことを願っています。(金井 サラ・日本・幼児教育教諭)
#関西生命線で、ボランティアをし始めてから色々なことを経験したりして人生のとてもよい勉強ができたと思う。18才の時親から離れてずっと一人暮らしをしてきた。振り返ったらたくさんの人々から親切に応援していただき、愛に恵まれていたと思う。それと同時に自分自身も何か他人にしてあげないと人生が物足りない気がしていた。我々皆弱い人間であるかもしれないが、いくら弱くても人に役に立てることがきっとあるのだろう。一旦それを見つけたら我々も強くなり我々の人生もすばらしくなるはずだと思う。(趙 依音・中国・留学生)


Q日常の電話相談だけでなく関西生命線はさまざまな活動を行ってきました。「関西生命線ニュース」では“中国残留孤児たちは今”という3回にわたる特集記事で、中国から日本に帰ってきた人たちとその家族が日本でどのような生活をしているか、どんな問題に直面しているか、それに対してわたしたちは何をする事ができるのかを論じてきました。(ワンポーズ)
 1995年1月17日阪神大震災が起きました。関西生命線はすぐに被災者の救援活動を始めました。1月26日から24時間台湾語、北京語で電話相談を受ける体制を取りました。被災者に生活情報などを提供しました。現地で炊き出しなどの奉仕活動も行いました。3月3日には「被災地就学生、留学生を励ます会」を催しました。ボランティアの井上恵介さん(99年11月に亡くなられました)の報告の一部です。
・ 阪神大震災によせて
 3月3日、神戸の基督教改革宗長老会で関西生命線主催の「被災地留学生を励ます会」が催された。会場にはキリスト教会や篤志家による救援の毛布・衣料・食糧・生活用品などが山積みされていた。
 中国・台湾・韓国・香港・インドネシア・シンガポール・ミャンマー・タイなどの被災した就・留学生延べ200人以上が集い、熱い餃子鍋に故郷を偲び、涙を浮かべている人もいた。「アパートが壊れ避難所にいる。シャワーもないし洗濯もままならない。肌着が欲しい」肌着類は当日希望者が多く品不足だった。初めての経験だけに何がより必要なのか十分解らなかったことは事実だ。
 被災留学生たちは桃の節句のひとときを、ボランティアの人たちと和み、餃子鍋を腹いっぱい食べ、各々の必需品を持ちかえっていただき有意義な心温まる時を過ごした。
 関西生命線を「餃子鍋の会」と思っている人もいるようだが、それでいいではないか。異国に在ってふるさとの味が味わえるなんてなんと素晴らしい事。食い道楽の大阪にうってつけの会である。年に1度なのが残念だ。そして開催時間も、もっと長く欲しい。関西生命線は電話による相談・救援だけでなく、中国に関心の強い中国語学院の日本人学生と、日本語学院の中国人学生との交流などいろいろの輪を広げて欲しい。


Q96年11月関西生命線は開設5周年を迎えました。そしてこの年、1周年を記念して始めた「お弁当講習会」の内容をまとめた「外国人のためのお弁当」が本になりました。本の中にはこう書いてあります。「お弁当は、日本の素晴らしい食文化の一つです。日本人にとっては、子どもの頃から知らず知らず身についている当たり前のことですが、外国の方にすれば悩みの種ですよね。この本を通じて、少しはご理解いただけるのではないでしょうか?実際外国の方がお弁当作りが悩みの種であるということに対して、逆に日本人もカルチャーショックを受けていると思います」
 この本を購入した人から寄せられた声を紹介します。
・ 「お弁当の本」に寄せられた声
#秋田県能代市で外国人のための日本語教室開催して10年になります。多くの国の方が学んでおりますが、お弁当は外国人花嫁の要望がとても多いことでした。この本はとても嬉しいものです。ありがとうございます。
#素晴らしい本を有難うございました。これからもがんばってください。加油、加油
#1ページ1ページに汗と工夫が込められていることが分かり敬服しております。
#日本人の私から見てもお弁当以上に利用できると思います。
#とても良い本でした。私にとって大変役に立ちました、謝々
#とっても素敵なお料理の本で感動しました。


Q97年6月、神戸で少年が幼い子どもをを殺したことが明らかになり衝撃を与えました。その2ヶ月後、関西生命線は第1回公開シンポジウム「神戸の事件を通して〜いま日本の社会環境を検証する」を大阪YMCAの後援を得て開きました。大阪YMCA国際専門学校校長 入江保夫さんがまとめた文章の一部を紹介します。
・  意義深く明日への思いを深める
 基調公演で野田正彰氏が「分析のための分析ではなく、私たちは何に取り組めるのかを考えよう」さらに「制度を変えていく取り組みが大切である」と訴えられました。また、パネリストとして山下英三郎氏は子どもを取り巻く環境に触れて「子どもの側に立つと息苦しいことが見える」「子どもの苦しみを誰が受け止めるのか」と、子どもの立場に立って物ごとを見ることの重要性を話されました。金守良(キム スリャン)氏は地域の問題に取り組む「知的ボランティア」が求められていることを報告し、今回の関西生命線のような働きが大切であると結ばれました。
 最後に伊藤みどりさんが、経済優先の日本社会は「父親が忙しすぎて帰宅できず、一緒に食事が取れない」状況を指摘「厳しい中にも愛ある家庭」「家の中に話し声、歌声、笑い声がある」ことの大切さを語られました。


Q97年10月には大阪市が男女平等社会を目指す活動を通じて社会に貢献している個人や団体に贈っている「きらめき賞」の受賞者に伊藤みどりが選ばれました。
 翌98年5月3日の憲法記念日には関西生命線は国際交流分野での活動が高く評価され大阪府知事賞を受けました。(ワンポーズ)
Q99年9月21日台湾で大地震が発生しました。関西生命線はすぐに救援活動を始めました。お月見大会での義捐金の募集、街頭での募金の呼びかけ、そして被災地に飛んでテント50張や毛布を配るなどの活動がすばやく行われました。街頭募金活動に5才の坊やを連れて参加した黄 敏秀さんの文章です。
・  母子共に募金活動に参加
 とても痛ましい光景です。目に入って来るのは嘆きの間もない悲劇でした。それは9月に発生した台湾大地震です。約4年半前に私も8ヶ月になったばかりの赤ちゃんも阪神大震災を経験したので、背中に地震の恐怖が襲ってきました。
 もちろん、真先に私の実家の安否を確認し、台湾の家族はお蔭様で全員無事でした。しかし、よかった訳じゃありません。台湾の中部にたくさんの人が苦しんでいるからです。
 今回、たまたま中華長老教会で関西生命線が主催される台湾大地震の救援募金活動を知り、その活動に参加しました。
 初日、子どもは募金活動に慣れなくて、ぐずぐずいいましたが、2日目は昨日の経験を積んで、積極的に募金の行列に加わりました。私の子どもはまだ5歳なので、募金の意味や目的など分からないと思いましたが、「僕は知っていますよ、台湾は大変なことになったから、そのお金でかわいそうな人たちを助けるのでしょう」としっかり答えてくれました。神様はこんなに心の優しい子どもを私に授けて下さいました。私たち、母子2人とも台湾の被災者の為に力になれたら幸いと思います。


Q映像編でその一部をご覧頂いたNHKTVの「ハローニッポン:いのちの電話で支えたい」の放送はこの年、99年5月13日と(再放送は)15日でした。
 関西生命線に寄せられた反響の一部を紹介します。
『ハローニッポン』の感想
#日本人には分かりにくい悩みや、悲痛な叫びが伝わってきて、母国語のいのちの電話の果たす役割の大きさがよく分かった
#母国語で話せるところが見つかり、私たち外国人にとって安心です
#活動は電話相談だけでなく、必要な場合は本人と会い、入国管理局や家庭裁判所へ出かけてサポートしている。親身になって世話をしている様子がよく描かれていた。また、帰国した中国残留孤児やその家族、それに留学生を励ます催しを開いたり、機関紙を発行するなど、活動の輪が広がっていることがよく分かった
#子どもに持たせるお弁当が、中国人の母親を悩ませているという話は意外な話だった。文化の違いが、こんなに身近にあることを教えられた。
#「相談者の力を引き出す。一緒に悩み考える」という真摯な姿勢が印象に残った。外国に住む日本人にもこんなNGOがほしいと思った
#日本人は欧米人よりもアジア人に対し不親切なところがあるのではないか緊急を伝える電話の声を聞きながら、そんなことを考えさせられた


Qそしてことし2000年の4月には第4回の公開シンポジウム「実名報道―少年法の原点はー」を開きました。「大晦日水餃子火鍋大会」も旧暦端午節「中華ちまき講習会」も「お月見大会」もありました。
 7月30日の開設10周年記念チャリティー音楽会には台湾の高雄合唱団が夏休みを利用して来てくれ、すばらしい歌声を聞かせてくれました。
 では最後に関西生命線が活動を始めたばかりの頃に寄せられた手紙、日本人と結婚した中国女性からの手紙を日本語と中国語でご紹介します。
日本人と結婚した中国女性からの手紙
 一人で日本にやって来た私は友達や肉親もいませんでした。これは私が悪<いのではなくて、大部分の日本人が中国人や台湾人を差別しているからです。このようにして7、8年が過ぎ、孤独な日々の中で精神不安定になりました。
そして約2年前から毎日、精神安定剤を飲むようになりました。中国のぬくもりと両親が恋しくなり、心の中では夫を捨てて中国に帰ろうと思いました。しかし夫のことを考えるとそれもできず、どうすればいいかわかりませんでした。この状況の中、私は関西生命線に救いを求めるようになりました。電話では「過去に自殺しようとしたことがありますか?」と尋ねられました。
 私は正直に「あります」と答えました。それから彼女は私の主治医に連絡をとりました。そして彼女は私に言いました。「あなたの人生は今から始まるのです」この一言で私は夢から覚めました。過去を振り返ってみると、私の人生は本当に今から始まり、やっと幸せを享受できるのです。彼女は私を励まし、心の支えとなり、人のぬくもりを与えてくれました。関西生命線は、私にとっては「関心」生命線です。彼女は私のためにどれだけの労力と時間を費やしてくれたか分かりません。異国で暮らす私は彼女を失うことができません。彼女は私の「生命線」だからです。 


一人でも多くの協力者をお願い申し上げます。
あなた方のご支援はわれわれの力になります。

----------------関西生命線への連絡は---------------

電話 06-6441-9595
関西生命線代表  伊藤みどり

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最終修正日:Dec 20 2000